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轆轤と呼ぶ特殊工具を用いて、椀や盆のような円形のくりもの木地を作る「木地師」の歴史は今から千百年以上も前に遡ります。
第55代文徳天皇(西暦827〜858)の第1皇子惟喬親王(844〜897)が近江国小椋ノ庄(滋賀県愛知郡東小椋村〜現在は滋賀県神崎郡永源寺町)に居をかまえていた元安3年(西暦859年)頃この轆轤にによる木地製作の技法を開発し、家臣であった小椋大臣実秀と大蔵大臣惟仲に、この技法を伝授して轆轤製品の製作にあたらせたのが木地師の始まりといわれています。
この木地師は当時、宮廷の奉仕に服したので、その後長く諸国を自由に往来して木地職渡世をする特権を与えられていたのです。
しかし、近世末には明治初年における廃藩置県により山林所有権の確定と交通網の整備により材料が入手しやすくなり木地師の山渡りには終止符がうたれました。
現在、小椋、大蔵の氏姓を名乗る木地師の末裔のみによって形成されている伝統の轆轤挽きの集落としては、信州漆畑だけです。 |
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